鞆の浦観光鯛網

Taiami

  • TOP
  • 鞆の浦観光鯛網
鞆の浦観光鯛網
2022年度の観光鯛網は、「開催日」「開催時間」「乗船場所」が、例年と大幅に変わっております。
お間違えのないよう十分にご注意願います。
コロナウイルスの感染状況によっては、開催を中止する場合があります。

~~4/27時点 観覧券販売状況のお知らせ~~
●ご好評につき、5月3・4・5日の観覧券は完売いたしました。
(4月29日、5月1日は、まだお席に余裕があります。)
●コンビニでの販売は予定枚数に達したため、全日程で販売終了しました。
開催日 2022年 4月29日(金)、 5/1(日)、3日(火)、4日(水)、5日(木)
5日間、5回開催
開催時間 11時00分~(全日1回のみ)
乗船場所 仙酔島乗船場 (Google Mapで見る)
所要時間 約1時間10分
広島県が定める「広島県におけるイベントの開催条件について」の対処方針に基づく、イベント開催時の感染防止対策チェックリストは こちらよりご確認いただけます。
観覧料
  大人(高校生以上) 小・中学生
観覧券 2,500円 1,250円
バス券付観覧券 3,300円 1,650円
家族観覧券 6,000円(大人2人と小・中学生2人まで)
団体 15名以上 2,200円 1,100円

(金額は税込みです)

  • 鯛網観覧は完全予約制です。観覧希望日の7日前までに、下記の鯛網観覧までの流れをご確認いただき、各観覧券販売所でお買い求めください。
  • 観覧券購入後は変更・キャンセル・払戻しはできません。
  • 15名以上の団体のお客様はお電話にてお問い合わせください。
  • 網引体験できます。当日受付、2~4名様限定!
    (・荒天時中止あり・希望者多数の場合は抽選)
    ご希望の方は10:30発までの市営渡船に乗船してください。
  • 貸切船での観覧もできます(別料金)。詳しくはお問い合わせください。
  • ※開催中止の場合は、HPで対応方法等をお知らせします。

鯛網観覧までの流れ

1. 観覧日を決める

2. 購入する

観覧券の購入には下記の2つの方法があります。

  • 方法(1) コンビニで前売券(引換券)を購入する。
    ※観覧当日、市営渡船場にある鯛網観覧券引き換え所で観覧券への引換が必要です。
  • 方法(2) 福福山駅観光案内所・福山観光コンベンション協会で観覧券を購入する。
    ※当日の引換は不要です。

3. 観覧当日、市営渡船乗場へ行く

  • 購入方法(1)の前売り券(引換券)をお持ちのお客様
    →鯛網観覧券引き換え所で前売券を観覧券に引き換え後、市営渡船に乗船し仙酔島へ移動してください。
    ※観覧券提示で渡船料は無料となります。
  • 購入方法(2)の観覧券をお持ちのお客様
    →市営渡船に乗船し、仙酔島へ移動してください。
    ※観覧券提示で渡船料は無料となります。

※観覧船は11時に仙酔島を出港します。遅くとも渡船場10:50発の船に乗船してください。
※網引体験をご希望の方は10:30発までの市営渡船に乗船してください。

4. 観覧船へ乗船

5. 観覧

鯛網観覧 特典

  • 抽選で鯛・保命酒のどちらか1点をプレゼント
  • 鯛網で捕れた鯛・小魚を特価で即売
  • 鯛網終了後、鞆の浦史跡めぐりを無料案内します。(約1時間)
  • 鯛網観覧券提示で自動車時計博物館に無料で入館できます。
    ※2022年12月31日まで
鯛網観覧特典
観覧券販売場所

コンビニ(ローソン、ファミリーマート、セブン-イレブン)、福山駅観光案内所、福山観光コンベンション協会
※コンビニでの販売期間は、各観覧日の7日前までです。
※コンビニでは前売券(引換券)の販売となり、乗船前に観覧券へ引換が必要です。
レジャーチケット買い方ガイド…詳しくはこちら→https://www.jtb.co.jp/cvstkt/guide/index.asp

コンビニで購入の際の商品名は「福山・鞆の浦 観光鯛網」です。
バス券付観覧券について

大人(高校生以上)・・3,300円  
小・中学生・・・・・1,650円

空撮動画

2019年度ダイジェスト動画

鞆の歴史と観光鯛網

戸内海の海流は満潮時に東西から流れ込み中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖から東西に分かれて流れ出していきます。
つまり鞆の浦沖を境にして潮の流れが逆転します。


大伴旅人

「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流だった時代には、瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければなりませんでした。

このような地理的条件から大伴旅人などにより万葉集に詠まれるように、鞆の浦は古代より「潮待ちの港」として知られていました。

平安時代

平安時代初期には鞆近郊に静観寺(806年)、医王寺(826年)が創建され、備後国南部における布教の拠点となりました。京都の八坂神社の本社沼名前神社は平安時代の法令「延喜式」にも記載されています。これらを含め江戸時代までに鞆の浦には寺が19か寺・神社が数十社も建ち並び、繁栄していました。

室町時代

1336年(建部3年) 多々良浜(福岡)の戦いで勝利した足利尊氏が京に上る途中、鞆で光厳天皇より新田義貞追討の命令書(院宣(上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書))を賜りました。南北朝時代には鞆の浦周辺で北朝と南朝との合戦(鞆合戦)が何回もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われました。

1410年(応永17年)頃走島東南部の唐船地区は、室町幕府3代将軍・足利義満が明国との貿易を進めた頃、鞆港の外港として下関港と堺港の中継港としての重要な地位を占めていました。繁華を極めていましたが大地震と大津波のため唐船地区の一部は数日の内に町並みと共に海中に没しました。多数の人々が死滅し、助かった人々は島を離れたため無人の島になりその状態が江戸期まで約200年間復興することはありませんでした。

戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に要害(地形がけわしく守りに有利で戦略上重要な場所に築いた砦。鞆で言えば鞆城があった場所)が築かれるなど備後国の拠点のひとつとなっていました。室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長により京を追放された後、毛利氏や渡辺氏の支援のもと鞆に拠点を移し信長打倒の機会をうかがっていました。伊勢氏・上野氏・大舘氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り鞆に下向したとされています。
このことから「鞆幕府」と呼ばれることもあり、また前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、江戸幕末の歴史家・頼 山陽は「室町幕府は鞆で起り鞆で滅びた」とたとえました。


足利義昭


頼 山陽

江戸時代


水野勝成

1619年(元和5年) 福島正則が広島城の無断改築をとがめられ領地没収のうえ改易。初代将軍・徳川家康のいとこの水野勝成に備後への転封が命じられました。水野勝成は鞆に上陸。その後神辺城に入りました。鞆城跡には奉行所が設置され、勝成の息子でのちに2代藩主になる水野勝俊が住んでいたため「鞆殿」と呼ばれました。また鞆の浦は朝鮮通信使(1607年から1811年の間に12回)の寄港地に度々指定されました。

1622年(元和8年) 水野勝成は領内を巡視して走島が無人であることを知りました。「もし走島が無人のために他国に攻略され城壁を築かれたら福山藩の通商貿易の拠点である鞆は危機に瀕するため武装が必要」又「海上交通の発達で西海諸侯の往来が激しくなるにつれ、難破船の救助や水の補給地として適地」と判断。要害下の札所に高札「走島へ永住の者に島を与える」を掲げました。 沼隈郡常石、村上太郎兵衛は、たまたま讃岐の琴平宮に参詣しての帰路、高札を見て早速福山藩に願い出ました。福山藩は「武装可能で開拓者集団とも言われる村上家は適格である」と判断し許可をしました。

1623年(元和9年)3月 村上太郎兵衛が家臣4家と農家13家族とともに、走島と鍛冶屋島、袴島、宇治島の3島を拝領して渡り、水野勝成に委任された政治、農業、漁業等一切の権利を活用し開発に乗り出しました。役目の重点が海上奉行的なものであり、走島周辺はもとより、備後灘一帯の漁業権も持っていたので漁法の開発には熱心でした。
鯛は外海の深海で冬を過し、3月末頃には東は紀伊山道、西は豊後水道から瀬戸内海に入って来て、よい産卵に適した備讃瀬戸、燧灘、備後灘の海域一帯を目指します。
5月頃に最盛になり、この海域を取り囲む各地の漁師達は、沿岸部に建て網を張って、岸近くに寄ってくる鯛を取っていましたが、江戸時代に入ると沖合に群がる鯛を出向いて、積極的、効果的にとる方法を考え出しました。それがしばり網を応用した鯛網でした。

鯛網は香川県方面で行われていた初歩的な漁法が見本らしく、村上太郎兵衛はこれを沖しばり網に改良し、現在の集魚灯のような役目をする「かずら」などの漁具を考案しました。そして鞆の当納屋忠兵衛と共同して、しばり網漁法による鯛網を本格的に操業した結果、漁獲量は格段に多くなりました。

かずら縄と本網を引く方法と本網の大小によって名称が変わります。

大網

同じ方向から入れる比較的大きな網を「大網(本網)」といいます。

しばり網

反対方向から入れる大網がさらに大規模化した網を「しばり網(本網)」といいます。

1659年(万治2年) 大坂から移住した医師・中村吉兵衛が考案した薬用酒(保命酒)の製造を始めました。

1690年頃(元禄年間) 福禅寺の客殿として対潮楼が建てられました(この時点では対潮楼の名はまだありません)。

1711年(正徳元年) 第8回朝鮮通信使の従事官の李邦彦が宿泊した福禅寺客殿からの眺望を「日東第一形勝(「対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地」とか「朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所」などの解釈があります)」と称賛し書を残しました。


対潮楼から仙酔島・弁天島を臨む

1748年(寛延元年)4月、第10回通信使の漢敬喜は福禅寺客殿を「対潮楼」と命名し洪景海が書を残しました。

1819年(文政2年) 儒学者・菅 茶山は備後福山領風俗記に「3月 鯛網のこと」として「鯛を獲ろうとしても外海は波が荒いために諸国より皆瀬戸内に集って網に獲った。これを鯛あみと言う。その見物の人はそばより網舟へ酒を送り、それに対しては鯛を送って礼とした…」と書いています。


菅 茶山


いろは丸

1867年(慶応3年)4月23日午後11時、備後灘の六島沖で坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸(全長54.5m、幅5.5m、160t)」が紀州藩船「明光丸(全長76.4m、幅10.9m、887t)」と衝突、大破。修理のため鞆港へ曳航中の24日早朝4時、宇治島の南方4kmの海底に沈没しました。その後数日、龍馬一行は鞆に滞在しました。のちの交渉で「紀州が83,526両19文を支払う」で決着しましたが、7万両に減額され、11月7日、賠償金完済。いったん土佐藩が預かった後に龍馬に支払われるはずでしたが、11月15日、龍馬は京都・近江屋で何者かに襲われて命を落としています。

江戸時代から明治時代

江戸時代の末ごろから明治にかけて鞆の港から漁師の持ち船や渡し船などを利用した観覧船が 出るようになり、沖合いの勇壮な鯛網を目の当たりにした人たちは、すっかり感嘆して語り伝え、鯛網は全国に広まっていきました。
鯛網には多額の資金と大勢の人手を必要としますが、資本家になり船を持ち、網を持つことができれば自由な操業ができるようになりました。そこで明治に入り衰退した走島の庄屋・村上家のあとを引継いだ形になったのが鞆・平(ひら)地区の漁業者たちでした。

明治時代

1887年(明治20年)頃、平地区の漁業の実力者、本瓦 清兵衛、藤本 清助、表 政七ら11軒の鯛の網元が発足し、1軒1船団として60人余りの人手を必要としたので平全体では総勢約700人でした。

1889年(明治22年) 鞆は県立鞆公園と指定されました(当時県立公園は宮島と2つだけでした)。

1897年(明治30年) 第2回水産博覧会が姫路で開催。「鯛しばり網模型」と「図」を出品し入賞しました。


鯛網図

1910年(明治43年) 鞆経済再生のための起爆剤として町民有志の働きかけにより鞆軽便鉄道が設立され、鞆出身者で「仁丹王」と呼ばれる関西財界の大立者の森下 博が大株主となり多大な貢献をしました。
明治末期には、しばり網が平地区で13軒、原地区で5軒ほどありました。

大正時代

1913年(大正2年) 鞆軽便鉄道が鞆-野上間開通。翌年、三の丸(今のJR福山駅)まで延長されました。


背景は福山城

1916年(大正5年)7月1日、深安郡福山町を廃し全国で73番目、県内では広島(1889年・明治22年)、尾道(1898年・明治31年)、呉(1902年・明治35年)に次いで4番目に市制を施行し福山市が誕生しました。当時の人口は32,356人、面積は5.8平方キロメートルでした。

観光鯛網の開始

1922年(大正11年)9月、鯛網への関心が高まるにつれ、「雄大な鞆の浦を背景にショーとして興業したら…」と目をつけたのが鞆町2代目町長に就任した横山運次で「客の落とす金は町財政の大きな支えになる」と、鞆の浦の観光開発に着目しました。構想はしだいにふくらみ「美しい仙酔島をバックに、桜鯛のおどる勇壮な鯛網を見せたら…」と仙酔島と鯛網の交錯するイメージが湧きあがりました。
しかし当時としては突飛ともいえるこの考えは町議会をはじめ鞆町民の一部から猛反対にあいました。横山町長は町議会議長の吉本三良兵衛(鞆軽便鉄道監査役)と協議のすえ、吉本が親しい森下 博氏に、その将来性などを相談することにしました。
大正11年末、訪問を受けた森下氏は腹を割って協力を求める町長の人物と手腕にすっかりほれ込み、快く協力を約束しました。百万の援軍を得た思いで帰任した町長は、さっそく町の有志や役場の関係職員らで鞆の浦保勝会を結成して観光鯛網への段取りを進めました。

1923年(大正12年)5月6日(日)に第1回鯛網を主催挙行しました。
同時に大阪では、森下氏が関西からの観光客誘致にと地元新聞各社に鯛網の全ページ広告を掲載し市電などにも宣伝広告を掲げて応援しました。

第1回興行は予想以上の成功を収めました。5月の毎日曜日、午前中1回(9時から12時の3時間)だけの開催でしたが、仙酔島の売店には酒が用意され芸者衆が繰り込んで三味線の音も聞かれ、豪壮ななかにものどかな観覧風景でした。鞆の浦の旅館裏の海岸から70人から80人乗りの観覧船が出ました。また希望があれば別にモーターボートや和船を仕立てて見学することも可能でした。ショーアップされた観光用の鯛網とは別に、沖合いで行われていた本格的な鯛網漁を見学に出向くこともできました。20人乗りの観覧船を日に15円で借り切るかたちで、昼食や酒を用意することも可能でした。また「御大漁の祝酒」として日本酒の小樽を用意しておき、沖で漁師たちに渡すと、返礼として鯛をくれることがありました。

1924年(大正13年) この年から日曜日は午前・午後2回興行となりました。

「備後名所 鞆津と阿伏兎(大正13年発行)」には、「陰暦3月の節句頃から6月の終わる頃まで、鞆・横島・田島等の沖合で、鯛網を曳く。これは備南名物の一つで、小舟をやとって鯛網見物に出かける者が多い。春陽清和の1日幾群の鯛網船で、赤銅色をした筋骨逞しい漁夫達が「ハーリハヨイショ」の掛け声勇ましく、一網で数千尾の銀鱗・金鱗を引き上げる壮観は、他で見られぬ図である。今年から鞆の浦保勝会では5月から6月初旬にかけ遊覧船を仕立てて鯛網見物に便宜を興している」と書かれています。

1925年(大正14年) 鞆の浦周辺は名勝・鞆公園の指定を受けました。

天覧興行

大正10年11月25日大正天皇の病状悪化により、皇太子が摂政(天皇の任務を代わって行う役職)に就任し摂政宮と称しました。

大正15年の初夏、摂政宮殿下(のちの昭和天皇)の岡山・広島・山口3県のご旅行日程が発表され、そのなかに鞆方面が入っていないのを知った横山町長は、さっそく県庁に浜田恒之助知事を訪れました。
横山町長「県下にまれな景勝の地、鞆を除外するとはなにごとだ。鞆を知らないにもほどがある」
浜田知事「いまさら変更できない不敬罪になるぞ」
横山町長「広島県を代表する鞆の浦と鯛網をお見せしないことこそ不敬罪だ」
と会話がかみ合わず、ひとまず知事を鞆へ案内しましたが、知事の力ではどうにもならない段階にきていることを知った横山町長はその足で上京し、郷土出身の宮沢 裕代議士(のちの78代首相・宮沢喜一の父)の紹介で宮内省を訪れて甘露寺受長東宮侍従(現明治神宮の宮司に相当)に鞆の風光と鯛網のよさを詳しく説明、ついに鞆ご訪問が決定しました。

大正15年5月24日、鞆に殿下をお迎えし、仙酔島の御前山の御野立ち所で鞆の浦の風景を、田の浦に設けられた仮桟橋からは鯛網をそれぞれお見せしました。
その後「天覧興行」は全国に伝わって観光鯛網としての地盤を固めるとともに、「日本の鯛網」としての基礎がつくられました。

昭和時代

1927年(昭和 2年)  鞆の浦、「日本新八景選定」にエントリーされました。結局選にもれましたが日本二五勝のひとつに選ばれました。

1929年(昭和 4年) 父が鞆出身で琴の名手の宮城道雄(当時35歳)が、「春の海」を作曲しました。


宮城道雄の切手


瀬戸内海国立公園指定時に
発行された切手

1934年(昭和 9年) 3月16日、鞆の浦は日本初の国立公園(瀬戸内海国立公園)として指定されました。

1935年頃(昭和10年頃) 観光鯛網船団は網船を除いて機械化しました。

1936年(昭和11年) 鞆の浦保勝会が発行したパンフレットは、鯛網だけではなく、船会社と連携した大阪・神戸からの「阪神鞆間鯛網観覧券付特別割引券」の販売を促進するためでもありました。
(大阪港を17:10に出発。神戸港を経由して19:40発。鞆港に翌朝6:30着。そのまま鯛網を見物しようというもので、運賃は片道で2等5円40銭。3等3円20銭。 船賃は2割引き、鯛網20銭割引)。

1938年(昭和13年) 沼名前神社内に森下 博像が建立されました。(昭和19年に戦争で供出しましたが、昭和27年に再建されました)


再建された像

1941年(昭和16年) 太平洋戦争突入への動きが激しくなった5月には仙酔島の彦浦で地引き網を実施しましたが観光客も少なく年末には開戦となり翌1942年(昭和17年)から1948年(昭和23年)までの7年間中断されました。

1949年(昭和24年) すさんだ人々の心を少しでも和らげようと、細々ながらも鯛網が再開され、しだいに昔の活気を呼び起こしていきました。

1956年(昭和31年)9月 鞆町が福山市に編入されたのと同時に鯛網事業は福山観光協会に移管され、翌年から協会主催となりました。

1960年(昭和35年) この頃、生業としての鯛網は姿を消しました。
1968年(昭和43年) 臨時急行「鯛網号」が運行しました。
日曜と祝日の前日…大阪12:50→福山16:27
日曜と祝日当日……福山16:37→大阪20:24

現代

江戸時代の鞆港の港湾施設である

  • 「常夜燈(燈籠塔)」…船の出入りを誘導する灯台
  • 「波止場(大波止)」…波止の役割をする防波堤
  • 「雁木」…階段状の船着き場
  • 「焚場」…船体を守るために船底を焼いて乾燥させる場所
  • 「船番所」…船の取り締まりや安全の監視をする場所

が全て揃って残っていて、江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路もほぼすべて現存し、現在の地図としても通用します。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がありません。


常夜燈 (燈籠塔)


波止場(大波止)


雁木


焚場


船番所

1992年(平成 4年) 鞆の浦が「都市景観100選」に選ばれました。
2007年(平成19年) 鞆の浦が「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれました。
2015年(平成27年) 「鞆の浦 鯛しばり網漁法」が「福山市無形民俗文化財」に指定されました。

鞆物語TOMOMONOGATARI